宇宙にまつわる神話 ~古代エジプト編~

物質を形づくる原子のことを、英語では「アトム(atom)」と言います。

実はアトムの語源は、古代エジプトの創世神話にあります。

3000年の長きにわたり、古代エジプトの人々が育んだ死生観。

そして、王権と強く結びついた太陽崇拝について見ていきましょう。

目次

1. 古代エジプトとは?

2. 古代エジプトの創世神話

  2-1. 原初の水「ヌン」 ~原子(アトム)の語源~

  2-2. 太陽神ラー ~生まれ変わるという思想~

  2-3. 古代エジプト神話の否定 ~抹消されたアクエンアテン王の時代~

1. 古代エジプトとは?

古代エジプトとは、約3000年間にわたる王朝支配の時代を差します。

はじまりは紀元前3000年頃に成立した、エジプト第1王朝です。

紀元前30年、ローマ帝国によりプトレマイオス朝が滅ぼされるまで続きました。

紀元前332年以前は、その繁栄期によって古王国・中王国・新王国時代と分類します。

おなじみのギザの3大ピラミッドは、古王国時代の第4王朝によって建設されたものです。

紀元前332年にアレキサンダー大王によって征服された後は、ギリシャ系のプトレマイオス朝支配となりました。

プトレマイオス朝の最後のファラオが、世界3大美女といわれるクレオパトラ7世です。

プトレマイオス朝が滅亡した後、キリスト教やイスラム教の文化が流入し、古代エジプトの信仰は失われていきました。

2. 古代エジプトの創世神話

2-1. 原初の水「ヌン」 ~原子(アトム)の語源~

古代エジプトの創世神話では、まずはじめに、原初の水「ヌン」があったとします。

この静的な水ヌンの中から、蓮(ロータス)が生え、花を咲かせました。

その花から、創造神アトゥムが生まれたとされます。

この創造神アトゥムこそ、原子「atom」の語源となった神です。

創造神アトゥムは、自分から2人の子どもを作り出します。

大気の神シュウ(男神)と湿気の神テヌフト(女神)です。

シュウとテヌフトは結婚し、大地の神ゲブ(男神)と天空の神ヌト(女神)を生みました。

やがて、ゲブとヌトは夫婦となります。

あまりに仲が良すぎて、2人はいつもピッタリと身を寄せ合っていました。

大地と天空の間にすきまが無ければ、世界が創造される余地がありません。

そこで、両親であるシュウとテヌフトが2人の間に入り、大地と天空の間に空間をつくりました。

その後、ゲブとヌトの夫婦に4人の子どもが生まれます。

オシリス(男神)、イシス(女神)、セト(男神)、ネフティス(女神)です。

やがてオシリスはイシスと、セトはネフティスと結婚します。

この兄弟は正反対の性質を持っていました。

兄のオシリスがエジプト繁栄の基盤となったのに対し、弟のセトは混沌(カオス)を支配しました。

やがて、オシリス・イシス夫婦に、息子ホルスが生まれました。

ところが、セトは自分がエジプトの支配者となるために、オシリスを殺害します。

バラバラにされてナイル川に捨てられたオシリスの遺骸は、イシスによって集められます。

オシリスは蘇りますが、「今後は冥界を統治する」と宣言し、息子ホルスに地位を譲って去ります。

そしてセトとホルス、叔父と甥による骨肉の争いが始まりました。

長い争いの末、勝利したのはホルスでした。

父の跡を正当に継いだホルスは、エジプトの支配者となります。

しかしセトとの争いの中で、ホルスは両目を失ってしまいました。

このホルスの両目が、太陽と月の象徴となりました。

2-2. 太陽神ラー ~生まれ変わるという思想~

エジプトの支配者となったホルスは、のちに太陽神ラーと同一視され、崇拝されるようになります。

太陽神ラーは円盤の形をしており、まさに太陽そのものを具現化した神様です。

古代エジプトの人々は、太陽神ラーが、夕方になると天空の神ヌトの胎内に飲み込まれ、朝になるとヌトから生み出されると考えました。

太陽が毎日生まれ変わるという思想は、エジプトの<転生>の死生観を生み出しました。

そして、死後の世界があると信じることで、ミイラに代表される独特の文化を形成しました。

また、太陽神ラーは王権とも結びつき、ヌトは王の象徴的な女神となります。

亡くなったファラオ(王)は、ラーと一緒に天空を巡り、永遠に国を見守るとされました。

中王国時代になると、アメン信仰という太陽崇拝が起こります。

太陽神ラーはアメン神と融合し、アメン・ラーとして広く信仰されるようになりました。

アメン信仰は国の宗教として、長く受け継がれていきます。

2-3. 古代エジプト神話の否定 ~抹消されたアクエンアテン王の時代~

古代エジプトの歴史の中で、1度だけ神話が否定された時代が存在します。

新王国時代の第18王朝、紀元前14世紀のことです。

時のファラオであったアメンホテプ4世は、アメン信仰を基盤に強大な権力を欲しいままにする神官たちに悩まされていました。

アメンホテプ4世は、神官たちの権力を奪うためにアメン神を否定し、新たに「アテン神」という神を作り出しました。

これは、古代エジプトでは驚異的なことです。

多神教であったエジプトの信仰を禁止し、アテン神のみを崇拝する一神教を打ち出そうとしたのです。

そして自ら、「アクエンアテン(アテン神のしもべ)」と改名しました。

さらにアクエンアテンは、愛する王妃ネフェルティティと共に、遷都を行いました。

当時の都テーベでは、神官たちの力が強すぎたため、新しい拠点が欲しかったのです。

アクエンアテンとネフェルティティは、砂漠だったテル・エル・アマルナに新しい都を建設しました。

残念ながら、この宗教改革は10年ほどで終焉を迎えました。

アクエンアテンが亡くなると、神官たちは力を盛り返し、アテン神は消されてしまいました。

せっかく築いた都も捨て去られ、元の都テーベに戻ることになりました。

王位継承権は、ネフェルティティが生んだ王女アンケセナーメンが引き継ぎます。

アンケセナーメンは異母弟ツタンカーメンと結婚し、ツタンカーメンがファラオとなりました。

ツタンカーメンは国の宗教をアメン信仰に戻し、アンケセナーメンと仲睦まじく暮らしましたが、17歳の若さで亡くなります。

王位継承のため、アンケセナーメンは大神官アイと再婚します。

新たなファラオとなったアイでしたが、高齢のため統治は長くありませんでした。

(アイはアクエンアテンの母方の伯父で、ネフェルティティの実父との説もあります。)

こうして第18王朝は衰退し、アクエンアテン~アイまでのファラオの名前は記録から削り取られ、抹消されてしまいました。